研修旅行記 2008年1月 佐渡 『笠地蔵』は、降りしきる雪の夜、貧しい老夫に笠をかけてもらった地蔵が恩返しをする、雪国の民話である。佐渡は雪国ではないが、いたるところに地蔵堂がある。古くて小さな木の御堂に、新しいアルミサッシとガラス戸がついている。野ざらしの地蔵もあちこちに立っている。毛糸の帽子や笠をかぶった路傍の佇まいは、島人の篤実な信仰を偲ばせる。輪郭の朧な地蔵も前かけをして、切花に囲まれている。その花がどれも新しい。 峠の木々に囲まれて小さな御堂がある。「梨の木地蔵」という。子供の病気平癒を願った親がこの御堂へ参り、願が叶ったら地蔵を納めた、そうやっていくつもの地蔵が奉納され、やがて御堂に入りきらなくなった。今では御堂を囲む木々の間に何千という小さな地蔵がひしめいている。明治十三年の記録にすでに三千体とある。もとは願が叶って地蔵を奉納するのではなく、願をかけるときに身代地蔵を納めた。今でも縁日には御堂でお籠もりが行われるという。 ![]() 子供と縁が深い地蔵は、賽の河原の本尊でもある。海に削られた洞穴や岩間、また山あいの渓流に多いのは、そこが黄泉の入口だと考えられたからである。洞穴はまた、母の胎内だともいう。そこで死者は生まれ変わる。かつては一つひとつの村や集落に賽の河原があった。 稚くして命を絶った子は逆縁の罪で地獄に堕ちる。地獄で子供たちは、一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため・・・と石を積む。そこへ鬼がやって来て、積み石を崩してしまう。子供たちは泣く泣く、また石を積みはじめる。それをまた鬼が崩し去り、また積み・・・それを永遠に繰り返す。そんな地獄の責苦から子供たちを救い導くのが地蔵菩薩である。だから賽の河原には必ず地蔵尊が祀られている。 佐渡で賽の河原といえば、願(ねがい)という集落のはずれにある岩窟のことをさす。ここもまた夥しい数の小さな地蔵がびっしりと敷き詰められていて、手の届かないような岩肌のあちこちにもセメントのようなもので固定されている。特に小さな地蔵(小法師)は、加工素材で大量生産されたものが多い。観光客が地蔵を置いていくこともあるという。昔の写真を見ると小さな祠がぽつんと建っていて、今とは違うひっそりとした風情をしている。 佐渡にはさまざまな宗教風俗が残る。一つひとつの集落の大きさや家の数に比して、山門と鳥居と祠の多いことに旅人は驚く。神仏の分け隔てはなく、過度な装飾もせずに、どれも自然に、まっとうに大事にされている。村の寄り合いは今でも寺や神社のお堂で行われている。墓石は立派なものが多く、集落を上から見守るようにしてあるので、じつに目立つ。念仏信仰も盛んで、念仏講もよく行われていたという。個々の集落の自治にあたって、講の存在は大きかった。 村はずれには祈祷札や大草鞋などを見た。札も草鞋も、人が託した思いは、村の入口に立つ地蔵と大きく変わらない。立派な庚申塔や宝塔もあちこちに立っていた。 この島の信仰の根深さは、あるいは配流された僧たちの力が大きかったかもしれない。かつて中央の政治を脅かした者には、弁のたつ高僧が少なくなかった。佐渡博物館では主だった流人の名が列記されていたが、その中に日蓮をはじめ僧の名前が多かった。我々が廻った中では日蓮宗と真言宗の寺が目立った。親鸞は越後に配流されたが、同門の徒は佐渡に流された。 佐渡には古い芸能もよく残る。佐渡に流された世阿弥を偲ぶのか、能楽はとくに盛んである。佐渡の能楽は寺社の能舞台で息を継いできた。大分少なくなってしまったようだが、佐渡の寺社に残る能楽堂は20をくだらないという。芸能は、元はすべからく宗教風俗であった。芸を奉納して神仏を楽しませ、庶民も一緒になってそれを楽しむ。芸を通じて神と人とは親しくしてきた。佐渡に能楽が盛んなのは、直接には世阿弥の影響があるのかもしれないが、佐渡は総じて宗教芸能が豊かで、よく残っている。 墓石が立派なのは、また石仏が夥しくあるのは、この島に優れた石工がいたことも関係があるかもしれない。佐渡へは古来、中国、朝鮮、北陸、山陰から人や技術が海流に乗ってやってきた。出身地が同じ者同士で村を形成することもあった。それで佐渡の方言は西国に近く、また集落ごとに方言が異なるともいう。おしなべて稲作と漁撈とが生きる糧であったが、それぞれの集落が、それぞれの特徴をいかす努力もされてきた。たらい舟で漁をする集落と、そのたらいをつくったり修繕したりする集落とは別にあった。石工に秀でた集落もあれば、竹細工を得意とする村もあった。時代に応じて、それぞれの村や集落が工夫しながら、独自の名産や特技を開発していった。今でも個々の集落の自治の意識は高いようであった。 両津から願 新潟港から佐渡の両津港まではジェットフォイルという高速艇で僅か60分である。通常のフェリーでは150分かかる。かつては夜更けに出て早朝に着く便もあったという。窓から望む佐渡島はちょっと目を離した間に靄に包まれた。雲の色が刻々と変わっている。 両津から佐渡一周路を北に行く。いくつかの集落を抜ける。家屋はこの道を挟んで二階家が並ぶ。二階部分がせり出しているのが特徴である。年明けて最初のゴミ収集日らしく、鴉を多く見る。さびれた村に人気はなく、鴉が杭にとまって冷たい風に吹かれている。 北端に瘤のようなこんもりした小さな島が二つ並んでいる。二つ亀という。亀の甲羅に似ているが、名前の由来は神が宿る島である。したがって「二つ神」が本来の呼びかたである。二つ亀と本島との間は、干潮時は陸続きになる。夏はそこに牛を放牧するそうである。北風が吹き荒れ、白い波が岩にぶつかって砕ける。雲は低く重なって、物凄い速さで駆けてゆく。 ![]() 大野亀を経ると戸数二十ほどの願の集落である。そこから賽の河原まで歩く。途中の海岸に散らばるゴミの中には中国語やハングル語が書かれたスプレー缶やペットボトルもある。漂流物なのか落し物なのか、履物がやたらと目立つ。左はやがて岩場になり、右はわずかな平地に田んぼが伸びているが、やがて田が終わるとすぐに岩壁が迫ってきた。願から賽の河原、そして二つ亀までは遊歩道になっている。 荒く削られた岩壁に穿たれた洞穴で無数の地蔵群に囲まれていると、現世の均衡が崩れてしまいそうである。対照的に鮮やかな玩具や漫画雑誌、風車などの色彩はいかにも唯物的で儚げに見える。雑誌が新しいのが印象的だった。いくつもの石塚が荒ぶる日本海に向かって静かに佇んでいる。いたずら者が石を崩しても、翌朝はちゃんと元通りになっているという。母親が亡き子に宛てた絵馬が奉納されていたが、その真実の言葉に胸が抉られた。これを卑しき風習だとか宗教の欺瞞だと言う人もいるが、そうだろうか。洞穴の一隅に舟虫の白い抜け殻がかたまっている。 車田を紹介する看板を見る。田の形態をいうのではなく、田植えの方式をいう。中心から放射状に円を描きながら植えていくやりかたである。これは古い田植えのやりかただという。田植えは神事であるから、信仰篤き佐渡の人々はこの古式を今に残したのである。 相川と佐渡鉱山 両津、佐和田、小木とこの相川が佐渡の四大都市といえる。立派なホテルもいくつかあった。かつては貧しい町家が多く、他村にもらい子を出したともいう。 金銀を掘りつくした佐渡鉱山はもはや鉱脈も乏しく、平成に閉坑した。産出量は産業革命の波を受けた明治以降が圧倒的に多く、昭和15年にピークを見ている。戦後は急速に縮小していった。鉱石を掘り出してから金になるまでの手間は大変なものである。その技術を築き上げるのにどれだけの年月が費やされたことだろう。多くの鉱夫が肺をやられて若く死んだ。坑内で働く人の寿命は平均わずか3年だったという。 精巧につくられたロボット人形が当時の作業を再現してくれる。地下水を汲み上げるのに並々ならない苦労を強いられたのは石見でも同じであった。江戸時代、佐渡に送られてきた無宿人たちは、水替人夫としてここで働いた。石見ではポンプの原理で水を出していたが、ここも原理はよく似ているようだった。このポンプを、佐渡では田畑の灌漑に利用した。 山の麓にはかつての火力発電所や選鉱所の巨大な廃墟が残る。島の生活は、儚い廃墟の美を感傷するほど長閑ではないだろうから、ここも荒れるにまかせ、いずれ消えゆくのだろうか。 相川はその盛衰を鉱山と共にした町である。貧しい農家の娘たちが奉公人として売られ、やがて遊女となった。今では鉱山も、ふもとの町も、地獄の影は見えないほどに薄らいでいる。 ![]() 佐和田と佐渡博物館 大きな町である。佐渡の語源になったという説がある。サワタはアイヌ語のサッタ(狭田)あるいは沢渡(さわたり)に由来するとも言われる。 この町の佐渡博物館には古代からの島の歴史や自然風物などがよくまとまっている。中庭では古民家のほか、庚申塔や石地蔵、道標などの信仰遺物が展示され、ケージでは地鶏が飼われていた。道標はおもに巡礼者のためのものである。 江積から沢崎 島の西南端は、佐渡で最も道路整備が遅かったところである。東の宿根木から岬をぐるっと廻って海岸線を自動車が走れるようになったのはそれほど昔のことではない。冬は西からの季節風が厳しく、意外にもコンクリートの建物が目立ったのはその故だろうか。 かつて『日本の詩情』で描かれた風景とよく似た岩礁に立つ。沢崎の灯台に近いこの磯に凍てつく風が吹きつける。この辺りの海は遠浅で、潮が引くと沖までずっと岩礁になる。 ここで人々は岩海苔を採った。一冬に十数回、海苔を採る時日を定めた。その日以外に勝手に採ることは許されなかった。鐘の音を合図に村人たちが一斉に岩場に駆け出し、波に打たれながら岩にこびりついた海苔を素手で掻き採った。そうしてまた鐘を合図に引き揚げていく。 今でもそうした慣習が残っているとは思わないが、岩場のところどころに四角く区切られた人工的な作業場あるいは足場のような土台があって、おそらく海苔漁は続いていると思われた。しかし「売るほど」かどうかは定かではない。密漁を禁止する看板をいくつも見た。 磯に風は冷たく、横殴りに雨粒が飛んでくる。雪にならないだけまだ寒くないのかもしれないが、都会から来た旅人には侘しすぎる風景である。しかし旅情はここに極まった感があった。 ![]() この辺りの集落では、たらい舟による漁が営まれている。遠浅の海にはかえってこのほうが安全だという。普通の舟も小さいものばかりだった。松の内なので、舳先には正月の飾りをつけていた。 おそらく漁に使われているだろうたらいを見た集落は二つばかりに過ぎなかった。ほんのわずかな区域にのみ、たらい舟漁が生きているようである。木のたらいだが、FRP加工がされているものがほとんどである。エンジンをつけたものまであった。 岩波写真文庫「佐渡」の表紙は、たらい舟を操る老人と少年の写真で、それぞれのたらいには小さな子供たちが乗っていた。櫂する少年はまだ小学生だろう。乗っているのはその弟妹だろう。こうやって小さい頃からたらい舟に慣れ親しんだ。そうして子供なりに海との駆け引きを身につけ、それを老人は温かく、注意深く見守った。 江積ではちょうどたらい舟が漁に出るところを見ることができた。二艘のたらいは、湾から外に出ることなく、湾内で貝のようなものを採っていた。よくは見えなかったが小さな貝であった。時刻は2時過ぎであろうか、晩のおかずにでもするのかもしれない、のんびりとした漁のように見えた。 沢崎の灯台は明治期にできた鉄製の灯台として稀有なため、世界の灯台百選にも選ばれている。岸壁から岩礁を見下ろすとそこは相変わらず厳しい風土である。 どこの集落か忘れたが、どてらを着た小さな少年が薪を抱え、リヤカーに載せているのを見た。 深浦 海岸線を彫刻刀で切り込んだような、崖の裂け目のごく狭い入江にその集落はある。小さな港から内陸に入るとすぐになだらかな坂がのぼり、その坂に沿って家屋が並んでいる。やがて家ごとの小さな墓地が続いて、村はずれの木に祈祷札がかかっている。いくつもの札がかけられているので、ここが境界と古くから定まっているのだろう。ここから内陸に向けて急な階段が上っている。ごく最近まで両墓制が残っていたようだが、その痕跡は観察できなかった。 集落から天を仰ぐと最近できた大きな鉄橋が空を横切っている。深浦への車道はかつては内陸から来ていたようである。いつまでこの集落に人は住み続けるのだろう。冷たい雨が降りしきり、村は旅情を拒んでいた。 屋島・経島 漁村だが観光地でもある。ここではたらい舟はもっぱら観光客を乗せて海に出る。 途中、ひときわ立派な宝塔があった。 ![]() 宿根木 千石船と船大工の町として古くから栄えた。風情豊かな町として知られ、観光地化も進んでいるようである。岩波写真文庫に載るかつての宿根木は、屋根に積石をした家がほとんどで、それがまたここの明媚でもあったが、今では2軒ほどしか積石をしていない。ここの鎮守は白山神社で、菩提寺は時宗の寺である。世捨小路というのがあるが、これも時宗とかかわりがあるのかもしれない。平安時代の摩崖佛も残るという。 雨風がひどいままに、水平線に夕陽が眩しく光っている。 赤泊 寺泊と航路を結ぶ港町で、佐渡奉行もここを発着したという。 大通りから一つ通りを中に入ると、そこには古い趣をとどめる家屋が残る。港からほど近い大野屋は、今でこそただの小さな旅館だが、昔の写真を見ると規模も大きくまた華やかである。ほかにも何軒かの旅館を見た。瓦屋根に望楼があるのは明治の建築で、廻船主の家であったらしい。 ![]() 妙宣寺 佐渡唯一の五重塔で知られる。日蓮の身辺を世話した阿仏房が自宅を寺として開いた。阿仏房は元は順徳天皇に仕えた武士だったという。 境内は広々としてよく整っている。禅寺のような凛とした風情がある。落葉を丁寧にかいている人がいたが、この人は僧ではない。住職らしき人は半纏を着て、ちょうど朝刊を取りに庫裡から外に出てきた。もう10時である。ここの境内が広いのは、もと城郭であったのを城が落ちた後に寺域としたからである。 日蓮が佐渡に流されてきた当初は、念仏門徒との軋轢も激しかったという。 国分寺 国分寺もその広大な寺域をよく残している。山門前には庚申塚や石碑が並び、中には出羽三山の名を彫った碑もあって、その雑多なさまはおよそ官寺らしくない。堂宇も素朴で飾り気がなく、官寺というよりもむしろ庶民に親しみやすい佇まいをしている。小さな草葺屋根の瑠璃堂には平安時代の阿弥陀如来が座すという。本堂は大柄だが、やはり屋根は草葺で柱の色が明るいせいか、ほのぼのとした温もりが感じられた。寺のすぐ裏は住職の家だろうか、わずかな晴れ間を惜しむように洗濯物が風に揺れている。 真野御陵 順徳上皇の火葬塚である。森厳とした聖域は宮内庁が管理する。最後は自ら食を断って死んだというが、佐渡には順徳天皇にまつわる人情話がたくさん伝えられている。 度津神社 名前の通り海の神様のはずだが、木の神を祀っている。佐渡一の宮である。もとは海に近いところにあったのを遷座したらしい。隣に宮本常一が植物の名前を覚えようとして覚えられなかった植物園がある。 鳥居の前に古くて大きな公会堂がある。村人たちの寄り合いの場となっているという。シャンデリアが寄進された旨の奉納札を見たが、なるほどそれらしきものが吊るされている。 蓮華峯寺 空海が開いたという偽説があって、梵字を刻んだ円形の石が山門前に並び、弘法大師の銅像が立っている。方角が京都の鬼門にあたるというので小比叡と呼ばれる。かつては末寺を40もかかえたという。 妙宣寺も国分寺も山中にありながら平らかな寺域をもっていたが、ここは山の窪地をそのまま生かして堂宇が不規則に立体的に建っている。その趣は山岳修行者にこそふさわしいようである。あるいは曼荼羅の空間表現といえるかもしれない。かつて僧兵を抱え、佐渡奉行を戦慄させたというが、寺の醸す風情の厳しさにかかわらず、庶民の信仰は篤かった。ここに気骨ある僧がいて、世相を睥睨し、権力には断固刃向かい、弱き村人たちを優しく懐に抱いた。祖師堂の一面には巡礼札が所狭しと貼られている。佐渡遍路は近世にはすでに確立されていたようである。 佐渡の寺が拝観料をとらないのは、境内に人の往来――とくに地元民の訪れが絶えないのが一因ではないか。ここの講堂でもちょうど村の寄り合いが行われているようで、とくに女の声が大きく聞こえてきた。 寺を出ると雨が繁くなってきた。 ![]() 長安寺 赤泊から川をのぼった小さな集落にある。里の寺といった風情である。平野にあるせいか、気候も穏やかな印象を抱かせる。 山門と鳥居が並び、その先に阿弥陀堂と社殿が並ぶ。神仏習合をそっくり残している。社殿の前にかつては能楽堂があったというが、今はない。阿弥陀堂には平安時代の仏像が安置されているという。それでときには我々のような気まぐれな旅人も訪れるらしい。やや荒廃しているように見えたが、本堂はまた別のところにあり、そこには立派な門構えがされていた。かつてはいくつもの末寺を抱えていたという。 神社は白鬚神社で、渡来系の神を祀る。佐渡も日本海の島らしく、大陸からの人の来訪は多かった。技術や文化も流入した。鬼太鼓のルーツは大陸にあるとか、渡来人の鎮魂のための宗教儀式だとかいう説もある。 ほかにはみちの駅に隣接する「能楽の里」と朱鷺センターを見学した。能楽の里ではロボットの能舞台を見た。鉱山といい、伝説館といい、観光施設へのロボットの導入が目立った。朱鷺は2008年にいよいよ放鳥されるそうである。とある道ではキジのような鳥が車道を横切ったのでびっくりした。車の往来がめずらしく多い道路だったので、しばらく気を揉んだ。 道路といえば、「スピード違反1万円。佐渡わかめ800円」「スピード違反はスルメー」「安全運転はアタリメー」等の道路標識がほほえましかった(平成20年1月記)。 参考資料 岩波写真文庫『佐渡』 宮本常一『私の日本地図 佐渡』 ・2005年8月 山陰旅行記へ Homeへ |