滄溟舎 研修旅行記 2005年8月 山陰 鳥取砂丘 海に向かって緩やかに下り、そしてせりあがる丘を上る。丘の上からは日本海を一望できる。植物も群生していて、人々はその植物をよけて砂上を歩いている。ふたこぶラクダが人を乗せていた。乗って記念写真でいくら、乗らずに並んで記念写真でいくら、という商いである。遊覧馬車も人待顔をしている。 ![]() 浦富海岸 砂丘からほんの少し内陸に入ると、もう緑の濃い山々に囲まれる。坂を上り海に向かってまた下ると、遊覧船乗場の駐車場に着く。山陰の旅情は車窓からの山並みに尽きる。中国山地は南からぐぐっとせりあがり、日本海に急傾斜して沈む。 駐車場脇には、電動のイカ乾燥機とでもいうべき装置が音をたてて回転している。縦に六層イカが括られグルグル廻っている。 海は凪いでいる。これを日本海の尋常だと思っては大きな間違いであることに後日思い知らされる。濃い緑色をした海面に船頭は「これでも濁っているほうだ」。遠くで海人が潜っている。釣りをしているのもいる。海鵜を使った鵜飼も行われているという。 日本海の荒波がつくった奇勝、景勝を船は廻る。山陰の松島ともいう。菜種を積んだ廻船が難破し、種が根付いて今でも花を咲かせる菜種島。山陰を船籍とする北前船を繰った男たちの眼差しは、いつも水平線の向こうにあった。 東に向かって少しだけ足を伸ばす。当初は舞鶴まで行こうと思っていた。リアス式の岸壁なので道は蛇行し、起伏が大きい。崖の上で車を下り、遊覧船で巡った景色を眺望する。ごく小さな海水浴場があり、沖に向かって紺碧のグラデーションを描いている。透みきった海にダイバーもよく訪れるという。 猫のかぼそい鳴き声がする。側溝を見るとダンボールに子猫が・・・もうよほど衰弱している。 田後 わずかな入江を囲むようにしてある漁村で、「たじり」と読む。女たちがイカを天日に干している。漁船の整備をしている漁師一人を除けば、陽に曝されているのは女ばかりである。イカ漁は夜っぴいて行われる。男たちは夜働き、女たちは昼働く。財布を握るのは女たちである。 入江からすぐに坂が上る。平地はほとんどない。坂沿いに家が並び、その勾配に応じて家の中に段差をつくっている。玄関は引き戸で、片方を開けて網戸にしている。家では屈強な男たちが眠っている。そこに女たちの安堵がある。日なたがあればイカを干す。トラックの荷台にイカを積むその手早さに、女たちの生活の旺盛さが溢れている。 新しい防波堤のすぐ脇に一際立派な旧家がある。お宮は家々を見下ろす高台にある。出雲の八重垣神社の分霊を祀る。八重垣神社は歌垣の伝統を残す古社で、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」の歌謡で知られる。ここも出雲文化圏に入る。 ![]() 板井原集落 漁村から山村へ。53号線を山の懐へと入っていく。濃緑の山並みを縫って、川を遡るようにして往く。国道から集落へと上る一本の細く曲がりくねった急坂を上る。左を見れば絶壁でガードレールもない。対向車のないことを願いつつ、そしてこの上に果たして集落があるのか訝りつつそろそろ行く。すれ違った一台の車に乗る人は、なぜか大笑していた。 小川に沿うようにして、山家(やまが)と呼ぶにふさわしい家々が並ぶ。平家の落人伝説がある。かつては分校だったという公民館の脇に駐車して、清流にかかる小さな橋を渡り集落に入る。この集落にはいまだかつて自動車が進入したことはない。空はすっかり晴れていて、小川に陽の光が眩しい。 家々の多くは朽ちゆかんとしている。蔵の大きさに往時の栄えを偲ばせる。江戸時代は炭焼、明治期には養蚕が盛んだったという。今はスローライフの村、グリーンツーリズムの観光地として再生する道を模索している。川の流れる音は、集落のすみずみまで清々しく響きわたっている。 盛夏の日差しに二人の老人を見る。農作業を終えたか始めるところらしい。 村の入口には六地蔵が並んでいる。 智頭宿 「ちず」と読む。「ち」は道、「ず」は始まりを意味し、道の起点、山陰の起点を意味する。これよりさらに南へ行けば間もなく岡山県、山陽である。陰陽は、中国山地の深い緑の中で結ばれる。 53号線から進路を西にとり、山間の482号線を走る。 三朝温泉 温泉療養のメッカとして知られる。世界一のラジウム濃度を誇り、当地で三度朝を迎えたらいかなる病も治癒するというのがその名の由来という。夜は温泉街らしい賑わいを呈している。三朝神社は手水も温泉であった。境内には無数の蝉の穴が穿たれている。 ![]() 投入堂 山陰屈指の古刹である。寺の名は三徳山三佛寺という。三佛は、釈迦・阿弥陀・大日で、かくも贅沢に三佛をそろえるのは密教的、天台的である。投入堂はその奥の院の愛称。役行者が念力でもって投げ入れたのでそう呼ばれるが、大山がそうであるように、この三徳山も修験道のメッカとして多くの行者を惹き付けてきた。風土が厳しいほどに修験者のストイシズムはかきたてられる。 三佛寺の開基は慈覚大師だといわれる。信州から東北にかけて慈覚大師の足跡がよく残る。師の最澄よりも広範な軌跡を描いている。山形の立石寺で慈覚大師の首なし埋葬骨が発見された。じつに奇怪なことだ。 寺の麓の遥拝所には一基の遠望鏡があり、空を向いている。その望む先に投入堂がある。女人禁制がしかれていた時代、女たちは麓から彼方の御堂を拝した。 山門をくぐると山寺らしい石仏が並ぶ。宿坊もある。本堂裏に登山口があり、そこで記名し、六根清浄と書かれた襷をもらい山道を入る。この襷は、登山者と下山者の数の一致を確認するためのものである。修験者たちは「六根清浄」と口で唱えながら山道をゆくが、これは呼吸を整える効果があるという。かつて山伏の修道映像を見たことがあるが、かなり大声をあげて六根清浄と合唱していた。鈴も振っていた。獣を寄せつけない工夫である。 山道に入ってすぐの小川に朱塗りの宿入(しゅくいの)橋がかかる。かつてはこの小川で六根を清めてから入山したのである。 木の根をあるいは手綱にあるいは足場にする。所々に滑り止めの藁敷がされている。それは足がかりにもなるが、またその藁敷が、そこが行くべき道であることを教えてくれる。上るほどに道は険しくなり、途中に鐘楼が設えてあるが、その鐘を搗くのも岩を上り下りしなければならない。岩の上には「左転落現場」と書かれた看板が置かれていて足が竦む。 文殊堂、地蔵堂、納経堂、観音堂などいくつかのお堂を経る。ここは山岳の曼荼羅である。これ以上近くには寄るべきでないという所まで上り詰め、投入堂を拝する。さらに間近に行こうとして滑落死した例も多いという。柵が施されているわけではないから、巫山戯れば奈落へ落ちる。中年夫婦に頼まれて写真を撮ったが、撮るほうも撮られるほうも腰に力が入らない。 未だ建築技法は謎に包まれている。現在の投入堂の木材は11世紀後半に伐採された木材が使われているという。往時は赤と白に彩色されていたこともわかっている。2006年の開山1300年を機に世界遺産登録への動きが活発になっている。 下山は想像以上に楽だった。襷を返却し、元三大師の護符をいただく。護符には「伯州三徳山」とある。ここは伯耆州である。 ![]() 倉吉 石州瓦と白壁で知られる。酒と醤油のかおる白壁土蔵群は日本のかおり風景100選にも選ばれている。かつては伯耆国の国府があったという。 観光地としての振興に町をあげて熱心に取り組んでいて、それがかえって旅人の興を殺ぐようであった。 大山 山を「せん」と読むのは古い呼び方。石川県の白山から大分県の由布山にかけて連なる大山火山帯の中心をなす。出雲風土記では火神岳、大神岳と記されている。明治の廃仏毀釈まで一般人の登山は許されなかった。 かつては巡礼がひきもきらなかったが、最近は随分減った。宿坊は消え、今ではいくつかの旅館がスポーツ合宿地としての招致に力を入れている。 大山寺 奈良時代開山の古刹で、山岳信仰、修験道のメッカである。ここも慈覚大師が密教を伝えたので、天台宗に属す。大山寺という名は明治の廃仏毀釈後に付けられた。 土産物屋と旅館が軒を連ねる参道を経て、山門をくぐる。本堂へと向かう階段の両脇には山寺らしい素朴な石地蔵が並ぶ。人を拒むような厳しさはない。 ![]() 大神山神社 大山寺の奥宮で本地垂迹の神を祀る。鳥居をくぐり、だらだら坂の参道を行く。自然石の石畳としては日本最長とのこと。石畳や石段の佇まいが比叡山と似ている。参道に沿って石仏が並び、南無阿弥陀佛と彫られた巨石が据わる。鳥居をくぐっていなければ、この先に神社があるとは思われない。かつては、この神社をいただいて、かなりの数の寺院や堂宇が山肌を占めていたようである。そのうちの一つが、大山寺であった。 根雨宿 おそらく丹生(にう)の訛。丹は朱色、あるいは水銀を意味するが、丹生といえば赤鉄鋼や酸化鉄、鉄丹の産地を意味する。 地図を見るといかにも山奥にある。日野川の流れは速く、里には水路が縦横に走り、山里の風情だが出雲街道の宿場町である。とはいえ今では宿は二軒しかない。鴛鴦の飛来地で、その時期にはそれなりに観光客も集まるらしい。出雲街道は鉄の道とも言われる。 根雨は鯉料理が名物で、夕食には鯉も出たが、その昔、銘々の家が町中に巡らされた水路を我が敷地に曳き、池を拵えそこに鯉を飼ったらしい。 根雨神社の鳥居のふもとの小さな広場で、小学生がラジオ体操に集っている。大人はおらず、上級生がラジオを持参し、スタンプを捺していた。境内に並ぶ灯篭の形、大きさがまちまちなのがいかにも鄙びた印象を抱かせる。見下ろせば日野川の流れはあくまで速く、ここが水の豊かな里であることを思わせる。町の水路にも水がよく流れ、まるで春を迎えた雪国のような音景色である。 ![]() 長楽寺 山の麓に田が広がる。そして線路が走る。伯備線は倉敷と大山を結ぶ。長楽寺は国道から川を渡り、踏切を越えて山里へ入るところにある。薬師三尊、不動明王、毘沙門天が見事だというが、蔵に納まっていて拝観できなかった。かつては修験の道場として栄えたとのこと。大山の僧兵と争い没落したというが、その隆盛を偲ぶ俤も残らない。 日野街道から島根県に入る。島根の語源は島そのものを指し根は接尾語で意味はないとする説と、「根の国」は出雲神話では黄泉への道行きなので、島根はずばり死者の世界を意味するのだという説がある。大和から見て出雲は西北にあり、それが黄泉にあたるという。出雲大社が神々の流竄地とする説の一つの根拠である。 奥出雲おろちループ 広島県との県境近くにある。日本で唯一、完全な二重円を描くループ橋。170メートルの高低差があるとのこと。車を下りて展望する。八俣の大蛇をイメージしてつくられたという。 鬼の舌震 渓谷である。 「ワニが慕う」が語源で、鬼は「和邇」、舌震は「慕ふる山」の転訛。和邇が慕ったのは、玉日女命という山の女神。恋焦がれて川を上りくる和邇を女神は嫌悪し、巨岩をもって川を塞き止め接近を拒んだという。その和邇を偲んだ、戀山(したいやま)という美しい名の山もある。 出雲神話にはワニが何度か登場する。ワニは鮫、鱶のことだという。 ![]() 可部屋集成館 「戦国武将塙団右衛門の末裔で、奥出雲の鉄師であった櫻井家に伝えられた資料を集成した歴史資料館」との由。印象は薄い。 たたら角炉伝承館 ここのたたらは、後で見る菅谷たたらとは別の製鉄法である。角炉を当時のままに保存し、そこには蝋人形に成り果てた男たちが今も休むことがない。 多々良という苗字や地名は、だいたい製鉄にかかわりがあるようである。山陰がたたら製鉄の一つの中心地だったことは間違いないが、たたら師は、かなり広範に分布していた。 鉄の歴史博物館 たたら製鉄のあらましを学ぶことができる。 山内生活伝承館 菅谷たたら たたら製鉄に従事した人が住む地区を「山内(さんない)」といった。菅谷高殿は江戸中期から大正にかけて操業した、日本にただ一つ残る高殿である。 たたら師が祀ったのが金屋子神という女神である。女神は地上に下りるとき、「村下(むらげ)」と「オナリ」をつれて来たという。村下はたたら製鉄の技師長で、オナリは巫女で村下の飯をたく女のことをいう。村下は一子相伝であった。 たたら師は山の民だった。里の民から見ると異人である。その異人の印象が、奇怪な妖怪として語り継がれるきっかけになった例も少なくない。「一本だたら」という一つ目一本足の異形の妖怪もそうかもしれない。たたら師は燃えさかる炎を見つめるため、目を傷めることが多い。片目がつぶれてしまった村下は少なくなかったという。 その足跡が琵琶湖になったという「だいだら法師(ダイダラボッチ)」も一つ目だが、やはり「たたら」との関連があるようである。和歌山県の一つ目たたらは「釣鐘を被って身を防ぐ」という。同じ和歌山県、道成寺が舞台の『娘道成寺』の安珍もそうだった。菅谷山内の大銅場においては、約200貫の分銅を、水車を利用して吊り上げ、これを落としてヒ(けら)を粉砕する。その作業は、娘道成寺の一場面と酷似している。 ![]() 三瓶山 「さんべさん」と読む。神話では佐比売(さひめ)山。女神を祀る山である。たたら師が祀った金屋子神としばしば同一視される。国引き神話では、この山が手綱の一方の支点となった。 出雲と石見の国境にある活火山で、2500年前と3500年前に噴火があったという。 島根県を横断して西へ。海沿いではなく山越えのルートをとる。連なる稜線は美しく、ローカル線の線路と踏切が旅愁を誘う。集落をいくつ抜けただろう。とある町では老婆が我々の車に向かって頭を垂れた。道は山峡に畝りながら、峠に、また尾根に伸びる。 昔の旅人はもちろん徒歩だったが、美しい山並みと清流にどれだけ慰められたことだろう。そして山中に突如として舞い上がる炎を遠くに望み、異様な感に打たれたこともあっただろう。 都川の棚田 日本の棚田100選に選ばれている。弧を描くように石を積んでつくられた田は200枚にのぼる。 この辺りの地名には○日市というのが多い。 ![]() 大井谷の棚田 都川よりもさらに大規模なこの棚田を望むには、駐車場から眺望台へと上る。 ここで収穫される米は、石見で一番美味しいそうである。山口県はもう目と鼻の先である。 津和野 「つわぶきの野」が語源という典雅な城下町。SLやまぐち号の終着点でもあり、しばしば萩とセットに観光される。城下の中心部は川と山とに挟まれたほんの小さな一画にすぎないが、城下町らしく整然として清楚である。 掘割に鯉が遊ぶ。いずれも色鮮やかな錦鯉で、町のシンボルにもなっている。城下町はだいたいそうだが、非常食用として鯉が飼われていたのである。 乙女峠マリア聖堂 キリシタン殉教者の霊を慰めるために創られた。キリシタン弾圧は、津和野藩では特に熾烈だったようである。日本の自然風土の中に、この聖堂と、そして石膏のマリア像と三尺牢は異様な怨念を秘めた迫力をもっている。ここは世界中のカトリック信徒の巡礼地でもある。 ![]() 津和野今昔館 明治から昭和にかけての生活道具を展示する。公衆電話や手回式計算機など、実際に手を触れ、使ってみることができる。 弥栄神社 太鼓谷稲成に比べると随分小さな社だが、ここの例祭が名高い鷺舞である。もとは京都祇園祭の式典であったという。それが山口を経て津和野に伝えられ、その後京都では途絶えてしまったが、津和野では古式そのまま今に継がれているのだそうである。小さいながらも風格をそなえた社だった。 ![]() 太鼓谷稲成神社 京都の伏見稲荷を勧進した。日本の五大稲荷の一社。稲荷の荷を成と書くのはここだけ。祈願成就にかけたという。 千以上もの朱塗りの鳥居を抜ける。出仕さんが竹箒で階段を掃いたり手水鉢を洗ったりしている。 ここの境内からは津和野の城下町を一望できる。山と川とに挟まれたほんの小さな裾野にその町があることがくっきりする。麓を列車が走る。球技場では野球少年たちが汗を流している。川に沿っておばさんが自転車を走らせている。老夫とその孫らしいのが散歩している。 津和野町郷土館 津和野の名士、文士たちの遺品やゆかりの品々を展示する。 津和野カトリック教会と乙女峠展示室 昭和6年につくられた教会。畳敷きである。 池の鯉に餌をやるが食わない。 国道9号線を東へ。ここから復路になる。 浜田 かつては港町として大いに栄えた。 石見 名物は石州瓦で、界隈の家屋に赤屋根が目立つ。この赤いのは鉄分によるものだと思ったがそうではなく、釉薬を用いて赤くしているのだそうである。 石見銀山の外郭は大森といって、昔ながらの町並を残す。途中資料館で、石見銀山の歴史などを学ぶ。 羅漢寺 新しい寺で、石見銀山で亡くなった人の菩提を弔うために創られた。二つの石窟に五百の羅漢が彫られている。25年かけて彫られたという。 ![]() 石見銀山 ここも灼肌の男たちが集った場所である。この旅は、海に漕ぎ出る男たち、炎を見つめる男たち、地に潜る男たちの、哀しくもひたむきな営み、そして痛ましくも逞しい灼肌に思いを馳せ、胸を熱くしたことでひとすじに貫かれている。 銀山までの途上、小さな坑道の跡を見る。そうした坑道を間歩(まぶ)という。いかにも古い呼び方である。間夫と書けば夜這いをする男だが、何とも皮肉な呼称ではないか。(夜這いというのはそもそもは「呼び合い」のことで、歌垣のようなものだったらしい) 石見銀山は、相当広範に、また複雑に掘られている。最盛期には六百もの間歩があったという。往時は西欧にまで名を馳せた銀の一大採掘地で、その全容はまだ明らかになっていない。 石見銀山の間歩のうち唯一公開されているのが龍源寺間歩である。1715年から昭和18年まで使われた。空気を確保し、地下水をくみ出し、照明を絶やさぬための工夫は命がけだった。暗黒の中で死神との格闘が続いた。鑿の痕も残る。坑夫の平均寿命は30歳くらいだったという。 帰路、バスを待つ間、喫茶店で珈琲を呑む。マスターと客が石見銀山の世界遺産登録について論議している。鎌倉、平泉、彦根城と共に世界遺産暫定リストに登録されているという。よもや登録は叶わないだろうと観光客の目で見ていたが、この旅の2年後には世界遺産になったのである。 温泉津 「ゆのつ」という。浅原才一にまみえるためにやって来た。才一は下駄職人であったが、仕事の合間を見てはカンナ屑などに己の信仰の法悦を綴った。妙好人は文盲が多く、列伝では奇特な行為ばかりが語られるが、才一は文字でその面目を表現した点で他の妙好人に抜きん出る。妙好人の信仰のありかたを、言葉を通じて垣間見る手がかりを与えてくれる。 正座して手を合わせる才一の像がある。頭には二本の角が生えている。浦富海岸から板井原集落に向かう途中にも「妙好人 因幡の源左のふるさと」と書かれた看板を見た。源左は阿弥陀仏を「親さん」といい、終生「ようこそ」で暮らした。柳宗悦の心をとらえて離さなかった、こちらは文盲の人である。 元湯 温泉街ともいえるが、漁師町でもある。だから朝は早い。湯屋が早朝から営業するのは夜漁を終えた漁師たちのためである。朝6時にもならないのに湯は賑っている。港では祭りの準備に忙しい。家々を見るとすでに洗濯物が干されている。 この元湯の効能は絶大で、湯に入るとじきにジワジワ温もってきて、とても長くは浸かれない。そして一旦温もると、その温みがなかなか消えない。原爆症に効くという。 温泉津寺町なる一画があるが、そうと知らなくても寺の多いことに気づかされる。とある寺では朝から読経が聞かれ、数組の履物が並んでいた。まだ朝飯前の時刻である。犬が凝っと耳を傾けている。 寺町としての萌芽は中世に遡るが、出雲大社を間近にして、まったく神道の臭いがしないのは不思議なほどである。そして近世以降、温泉津の興隆は石見銀山と共にあった。修羅の怒りと哀しみそのままの男たちが、束の間の安らぎを得たのが温泉津であった。 ここも、石見銀山と一緒に世界遺産に登録された。 ![]() 安楽寺 「せかい こくうが みな ほとけ」とうたった浅原才一の遺品が展示されている。 出雲大社 出雲神話の神々が祀られる社。神無月には国中の神がここに集う。出雲ではその月を神在月という。祭神は大国主、国つ神一党の首領であり、天孫族つまり天つ神に敵対し、敗れた神である。そこで大国主は縄文時代の神格だという論もあったが、先着の渡来人の祖先だというのが定説である。 最近の発掘で、出雲太郎の面目を髣髴させる太い御柱が見つかった。これにより往時の大社は今のような地面にどっしりと据えられた建築ではなく、空に向かって聳えゆくような、まさに神殿と呼ぶにふさわしい建物であったことが推測されている。復元模型を見るとものすごい迫力である。このような神殿造りの例が、日本のほかの地域にあるだろうか。古代ギリシャの神殿のようである。 ![]() 島根半島 国引きの神話で、朝鮮から引っ張ってきたのがこの島根半島である。地図を見ると、とってつけたように見えなくもない。 日御碕灯台 荒波に削られた断崖に立ち、その高さは東洋一という。世界の灯台100選に選ばれている。碕の字がつくのはこの灯台に限るとか。出雲大社に近いからか、随分賑っている。軒を連ねる土産物屋も盛況している。沖には白波が立っている。 ![]() 一畑薬師 「いちばた」と読む。眼病治癒のご利益があるという。寺の縁起は多層的である。1.盲目の母をもつ漁師が沖で仏像を引き揚げる、2.夢に薬師如来が示現する、3.瀧から飛び下りれば母の眼を治してやると告げられ、そのとおりにする(母は目が見えるようになる)、4.如来像を祀る御堂を求め、背負い歩くうちに、急に背中が重くなった場所が、一畑寺である。境内では眼病に効くというお茶湯をいただく。 眼下に宍道湖を望む。 加賀の潜戸 「くけど」と読む。加賀の港は避難港として発展した。かつては隠岐への航路もあった。 国引きの神話で朝鮮半島から引いた土地は、能登半島と島根半島だった。これはかつて、朝鮮から能登・島根半島への大移住があったことを暗示しているという。しかしなぜここに、加賀の潜戸なのか、北陸加賀との関連はあるのかないのか、よくわからない。しかし山陰と北陸とは、古代より人の行き来は繁かった。 潜戸は旧潜戸と新潜戸とがあるが、強風のため「旧潜戸のみお参りいただきます」と船頭。港を出るまでは何ほどのこともなかったが、沖に出た途端に波を受け、揺れることといったらない。自分たちは舳先に座っていたので、潮水を随分浴びた。打ち寄せる波音にその声がかき消されながら、船頭は言の葉を継ぐ――。 「ここ加賀の潜戸といいますのは、二つの洞窟のことをいいまして、前方右に見える洞窟を「旧潜戸」といいます。また、××岬の突端にもう一か所、船の通れる洞窟がありますが、この洞窟を新潜戸といいます。この二つの洞窟をあわしたものを、加賀の潜戸といいます。またこの付近は、大山隠岐と共に、文部省より指定を受けた名勝天然記念物の国立公園となっており、××には良い所でございます。 さっきから風が出てきたもんで波ができたものですから、今日は新潜戸の方には行かれません。旧潜戸だけ、お参りしていただきます。普通でしたら、この旧潜戸の洞窟まっすぐ向いて走るんですが、今日は波がありますんでこちらを、大回りしていきます。 ……この洞窟を旧潜戸といいます。この洞窟は奥行き50メートルぐらいありまして、中にはお地蔵様を祀り、その周囲から花の尽きるまで「賽の河原」といいまして、石の塔がたくさん積んであります。子供を亡くされた方たちがお参りになり、子供の冥福と早くに生まれ変わってくるようにと積まれた石の塔が長年に渡り今はこの洞窟一杯になっております。したがいまして、この賽の河原といいますのは、成人にならずして命を落としていった子供たちの魂の集まる場所、これを賽の河原といいます。この子供たちが夜中にひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため、みっつ積んでは兄弟の幸せとわが身の回向にと涙ながらに石の塔を積んだときの足跡が、明かりの灯らぬうちにお参りいたしますと片足ずつ残されていますが、明るくなりますといつしか消えてなくなっておるといわれております。子供を亡くされた方たちが遠方からも我が子会いたさに、玩具(おもちゃ)や勉強道具を持ってお参りになり、お地蔵様に守られているのを肌で感じ「早くに生まれ変わってくること」を願いつつ、安心してお帰りになられます。外観からもご覧になってわかりますように、この子供たちは「母の胎内で」というのは、この洞窟のことをいいまして、母の胎内でお地蔵様に守られながら、来世に生まれ変わるのを待っておるところといわれております。これから皆さんお参りしていただくんですが、お参りされましたら、ひとつ、ひとつでもふたつでも結構です。石の塔を積んでこの子供たちの供養をしてやってください。まもなく着岸致します」 トンネルを抜けて賽の河原へと向かう。母の胎内というその洞穴は、息を呑む異空間である。真新しい花がいくつも供えられ、小石が積み上げられている。 ![]() 宍道湖 シジミ漁で有名。海水と真水が入り混じる、日本で七番目に大きい汽水湖。猪(しし)の道(じ)というのが由来らしい。「しし」は「四×四」で、「十六」である。「十六」を縦に並べると「穴」という字に見える。だから「しし」は「穴」と書くのである。 松江 宍道湖と中海に狭まれた、古くから開けた都市である。碁盤の目の地割に、水系が整っているのが、入念な都市計画がされた城下町独特の風情である。日が暮れて松江城に登楼し、夜景を望む。 ![]() 七類 ここから高速艇「レインボー」に乗る。 七類というのは変わった地名だが、「しちるい」と読むのか「ひちるい」と読むのかよくわからない。こうした得体の知れない地名は、いかにも出雲らしい。かつては「質比留井」と記されていた。 1時間ほどで隠岐島、島後に着く。 隠岐島 島前・島後から成り、島後は「どうご」と読む。竹島も含むという。 かつての遠流地である。流されたのは天皇はじめ高貴な人が多い。小野篁、文覚上人、後鳥羽法王、後醍醐天皇などである。島民の後醍醐天皇への思い入れはとくに強く、天皇の末裔である可能性を秘めた島民も少なからずいるというが、本当だろうか。 億岐家宝物殿 億岐の総社として創建された玉若酢命神社の宝物を展示する。駅鈴・唐櫃と億岐国倉印を三宝物とする。億岐家は隠岐国造(おきのくにみやつこ)の末裔と言われる。駅鈴は、かつての官製はがきのデザインで馴染み深い。 ![]() 玉若酢命神社 隠岐の総社として創建。屋根は茅葺きで、その造りとあわせていかにも古社らしい。境内には高さ29m、樹齢2000年と言われる天然記念物の巨木、八百杉がある。この木を植えたのが八百比丘尼だという。八百比丘尼は、人魚の肉を食ったばかりに八百歳まで生き長らえ、若狭は小浜の洞窟で入定した。ここにも北陸との結びつきを見る。 隠岐国分寺 後醍醐天皇の行在所跡。昭和25年に再建。堂内で手を打つと、天井で谺する。 ![]() 水若酢神社 ここも古社で、隠岐造という独特の建築様式を遺す。水若酢命は隠岐国の国土開発と日本海鎮護の任務にあたった。 隠岐郷土館 水若酢神社に隣接する、郡役所だった洋館。民俗資料や生息生物等を展示する。隠岐は黒曜石の産地だったという。 白鳥海岸 遊覧船に乗る。今日も風が強くよく揺れる。前方に座る夫婦が、幼子の写真を掲げて、窓の外に向けている。稚くして亡くなった子供の写真なのだろうか。きっと、加賀の潜戸の賽の河原にも参ったことだろう。 帰りのフェリーは島前にも寄る。見送りの人がたくさん手を振っている。 ![]() 美保関 かつてここの青芝垣神事と諸手船神事のドキュメンタリー映画を観たことがある。頭屋制度といって、神主は氏子の持ち回りで務めるのではなかったか。 美保神社は大国主の息子、事代主と三穂津姫を祭る。事代主は国譲りの神話で、天孫族に国を譲ることに同意し、自分は海に隠れた。争いを好まない、平和的な神として地元民に慕われている。 港のあちこちで烏賊を干している。土産物屋も軒をつらね、それなりの観光地らしく見える。しかし美保神社に参詣する人影はまばらである。神官が祝詞をあげると、おもむろに巫女が舞い、神官二人が笛と太鼓を奏ではじめた。彼らも持ち回りで勤めている氏子なのだろうか。毎朝夕、舞を奉納するのだといっていた。 ![]() 米子 商店街と寺町を歩く。 境港 山陰屈指の港町は、ゲゲゲの鬼太郎の生みの親、水木しげるの故郷として新たな局面を迎えた。米子市との合併も拒み、妖怪の市として歩まんとしているのか、住民票の写しの透かしにゲゲゲの鬼太郎のキャラクターが使われているほか、鳥取キタロウズという硬式野球チームもある。 「水木しげるロード」にはゲゲゲの鬼太郎のキャラクターの石像が並ぶ(2005年9月記)。 ![]() ・2008年1月 佐渡旅行記へ Homeへ |